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親父は言った。

このシリーズは私の父の話です。私が子供の頃は無口な父なのですが、お酒を飲むと大虎に変貌。
 しかし、機嫌のよい時は楽しい話を聞いたなー。親父は現在、87歳 かなり老いたが今でも昔話を
聞かせてくれるんです。

 

平成30年8月26日(日) 水道の水漏れ修理

今日は先週頼まれていた風呂場の水を出すと上のハンドル辺りから水が漏れるとのことで上部パッキンと
止水用のコマと呼ばれるパッキン部品を用意して修理を行う。水道も普通のタイプは部品も標準的なもので
1か所数百円で修理、今回は風呂場だけでなく、台所、外の水道も分解して上部パッキンや内部のコマを交換
する。1か所交換するのにさほどの時間がかからないのだが気温が38度、イヤー汗だくでした。



平成30年8月19日(日) 終戦当日の父の様子

今日は久々に父と買い物をした。先日まで暑さのせいか、父は一緒に買い物に出かけず自宅で待機が続いて

おり、少々心配だった。どうやら暑さがきつい様で外に出ると頭が痛いとのことだった。8月17日位より気温が

下がり、湿度も秋の感じになってきた。環境変化に敏感に感じるんだろう。

今日は何のテレビを見たんだろうか、突然、生きているうちに昔の話を伝えなければいけないと言っていた。と

毎回、色々聞いているがその中でも今日は昭和20年8月15日終戦の日、今日はこの一日のついて語ってくれた。

昭和13年より文部省は中等校以上の学校に対して集団的勤労作業の命令を発令した。

昭和20年春を過ぎる頃だったか、今まで学徒動員で軍需産業の三菱重工業でゼロ式戦闘機の主翼等の中に使

われている魚のような形の部品をハンマーで叩いて整形する作業をしてきたが、夏位にはその仕事がなくなった。

子供ながらに部品の材料がないことを感じていた。


従って工場の作業から飯島製作所の防空壕堀りや須藤製糸工場の工場建屋の解体が主な仕事だった。8月15日

10時に全員12時から重要な放送があるので飯島製作所に集合するよう指示があった。

時間に向けて飯島製作所に着くと大勢の人が擦れに最前列の前に置いてあるラジオの方を向いて整列をしていた。

父たちは最後尾の方に並んで時間を待った。ラジオから放送が始まったが父が並んでいる場所まで当時のラジオ

の音量は届かず、何を言っているのかわからなかった。ただ、先生や多くの大人が泣き崩れた姿を見てなんとなくだが

良くないことが起きたと感じた。放送後、すぐに尋常高等小学校に戻るよう指示が出た。

そこで先生は写真を撮るので高等部1年、2年を並ばせた。なぜ、写真を撮ったのか、戦争が終わりその節目を残したい

そんな気持ちが先生にあったのだろうか、やがて日本に来るであろうアメリカ進駐軍、最悪こういう写真も没収や処分

されたかも知れない。それが残っているとは先生の子供たちへの最後の思いでろくに資源のない時代で敗戦の日本が

どうなるのかさえ、誰も想像できなかった中でシャッターを切ることが先生が最後の仕事だったのかも知れない。

今から73年前、父が13歳と11か月の時である。中央の下から2段目は先生らしき5人、前列から二列までは高等小学1年、

三列目以降は高等小学2年の上級生とのことだ。当時は今でいう中学校が高等小学校で今と違い2年制であった。

尋常小学校は6年制、その後、尋常高等小学校2年制と続く。

まだこの段階で13、14歳の子供たちは日本が戦争に負けたと理解する間で至らなかったのだろう。それは自然に撮った

この表情からも読み取ることができる。




そうそう、父から借りたのは写真が経時変化で劣化して黄ばんでいた。そこで一旦、スキャナーで取り込みデジタ

ル写真を色合い、モノトーンの諧調を調整したデーターが上の写真。現物は既に黄色の色合いになっている。

まずは白黒写真の原型に戻す処理をする。

そして更にこの白黒写真を変換すればカラーになるんです。ネットで情報を確認してソフトを利用させてもらい変換

したのがこの写真です。

古河尋常高等小学校 昭和20年8月15日 昼過ぎ 講堂の前にて撮影。後方のガラスには木々と校舎の屋根の

様子が見て取れる。

最前列、左から3番目が父

当時の白黒写真がなぜ、カラーになるんだ。と技術的な事がネットには書いてあったが難しすぎて理解困難。

カラーにすることで暑い日差しの中、足元の雑草が緑色の感じや当時、学生が着ていた服装の色合い,8月

の日差しがほぼ真上から射している為に影も足元や軒の屋根の影なども日差しがよくわかる。

ただ如何せん、73年前の写真、既にかなり画像が劣化していることもあり、すべての色合いまで再現は厳し

がここまで再現できれることに衝撃を受けた。



内容に戻ろう。学徒動員は1日1円の給料がもらえる。一般の社会人は一日97銭だったとのこと。

大人から見るとうらやましがられたようだ。しかし、学徒動員の給与には仕掛けがあった。

学徒動員の給与は当時の通貨ではなく、戦中に発行される債券に1日1円×25日=25円の金額の債券が

毎月、学徒動員には渡された。しかし、その債券は全く価値のない紙くずになったとのこと。

あれだけ国の為に学生が働いてきたのに・・・誰もが同じ思いだった。これが戦争なのかも知れない。

規則や約束など事態が変われば無くなる。まさに朝令暮改。

だからかも知れない。父は新しいことや親しい中でも用心深い性格で対応を何度も見てきた。

子ども時代に国から騙されるんだから人すら信じられないんだろう。ここに父親の用心深さの原点があった

ことを今更ながらに感じた。



平成30年8月10日

今日はお盆の準備でホームセンターでほおずきをはじめとする仏壇飾りの購入とスーパーでご先祖様の
仏食(我が家では食事のメニューが代々決まっており、それを昔より作っています)の材料を購入する。
買い物が終わり、実家に着くとテレビでは高校野球の真っ最中。

親父に「高校野球も好きなんだ?」と聞くと想定外の答えが返ってきた。
「いや、高校野球はあまり好きじゃない。嫌な思い出があるからなー」と意味ありげな発言をした。
それが何かを聞きたくて「昔、何があったのか聞きたいなー?」と。

すると父は話だした。
「お前も知っての通り、俺は中学時代には戦時中の学徒動員で労働していた。従って戦争が終わった動乱期は
食料確保や稼ぐことで高校には行けなかった。しかしな、高校で野球をやってみたかった思いがあったのだろう。
20代前半、ちょうどネジ工場を始めてから仲間と野球チームを作ろうと話になり、「雷三」(らいさん)と
チーム名を付けた。雷三の雷は当時、古河市雷電町とこの地域は呼ばれていたのでその雷と三は仲間3人で
結成したので「雷三」と付けた。

ユニホームを新調してまともにグローブなども限られた者しかなく、ボールは手づくり位しか準備できなかった。
とにかく、試合をしたくてしたくてたまらなかった。

試合をする相手としては自分が行けなかった高校生と試合をしたと思った。
そこで近所に古河一高の教諭をやっていた方に「自分達は雷三というチームで古河一高の野球部なんて目じゃ
ない。希望があれば手合わせの試合をやってあげてもいいんだけどなー。」と煽るよな事を野球部に伝えるよう
放すとすぐに試合の申し入れが古河一高からあった。

早速、夏のある日に栗橋に近い野球グランドで試合が計画された。
実は父が作ったチームは名前の通り「雷三」は仲間内が3名のみ、それ以外のメンバーを確保に同じネジ工場
の仲間に声を掛けてメンバーを揃えたとのこと。ただし、そのチームでの練習は1度もなく、それぞれが自主練で
当日を迎えた。

試合は通常であれば硬球のボールを使用するのだが「雷三チーム」はまともに全メンバーがグローブがない。
そこで軟球ボールでの試合開始となった。
雷三チーム先行で試合は開始。
ピッチャーが投げる球はストライクが決まらず、ボールカウントばかり。フォアボールが続いていくか、たまたま
入ったストライクは思い切り打たれる。その繰り返し。
気が付けば6回には36対0.それも古河一高はわざと空振りしたり、自らアウトカウントになることでその回が
終わる。父はちなみに背番号11で控えのピッチャーだったとのこと。

6回を始める時に古河一高から提案があった。
「ピッチャーについては雷三チームの方が私たちの誰でも良いです。ピッチャーを指名してください」とのこと。
酷い侮辱であった。プライドがずたずたになり、それ以降1度もユニーホームの袖は通さなかったとのこと。
それでもそれを語る父の表情は笑顔に満ちていた。
そもそも朝晩厳しい練習を重ねている高校生と昼休みにキャッチボール位しかしていない社会人チームに勝算
がある訳がない。
たぶん父は勝ち負けではなく、高校生と試合をすることで自分が果たせ無かった夢を叶えたかったんじゃないかと。
たった1回の試合だったかも知れない。しかし、この一回は父にとって長年の夢のひとつでもあり現実に実現できた
夢だったんだろう。そしてそれは今でも心に刻まれた幸せな時間だったんだろう。
仏壇に線香をあげると線香の煙がまっすぐに天に向かう。
まるで純粋な気持ちで試合をした雷三チームの思いのような熱いものを感じた。





平成30年7月15日

今年は6月から気温の上昇が厳しく、35度とか37度とか異常な年になっている。
今日もいつものように実家に行き、1週間の食事の買い出しと言うことだったが、父が「今日は暑い
からいいや」との事で私だけで買い物にいつものスーパーに到着。いつもなら父の歩く速度に合わせ
て歩いているのだが今日は自分のペースで歩ける。3連休の中でもあり店内はかなり空いている。
いつもの小松菜をかごに入れようとした時、車いすの高齢女性、そのすぐ後ろには高齢のご主人だ
ろうか、いきなり車いすを後ろからカートを強くぶつけている。
高齢の車いすの女性は背中に衝撃があったのだろう、痛みを我慢した表情で下を向く。
間髪入れずに後ろからご主人が車いすの奥さんに対して怒りを顕わにして大声で怒鳴っている。

私よりも高齢のじい様。あんな年になっても仏の境地には至っていない。きっと地獄に堕ちてもおかし
くない。
人前で車いすに乗っている老婆を後ろからガンガン、カートをぶつける。まさに醜い醜態を感じた。
何があったかは知らないが、老々介護でのストレスなんだろうか?老齢の奥様は自分で車いすの手で
回しながらご主人にぶつけられないように一生懸命両手を動かし先を急いでいる。
そんな事はおかまいなしに何度もぶつけながら後ろから車いすを追うおじゃん。

自分も高齢の域に片足が入ってきている。でも自分は人前で車いすを後ろからカートをぶつけるような
事はできない。自分より弱い者、身体の不自由な方に対して労わることはあっても追い込むような事は
あり得ない。この年になって本気で仏の境地で過ごそうと日々、意識をしている。ま、時にはイラつく事も
あるが可能な限り、平常心で過ごす。
いや、あれだけ強気の父親の老いを毎週見るが、それでも近所の人々を悪く言ったり、バカ呼ばわり。
年老いても仏の境地になるのではなく、相変わらず自己中で言いたい放題。自分に掛かるストレスも減
らない。そういうのを見ているとなぜか、胸が辛くなる。
あまり親孝行をしていない冷たい息子だから親父が自分に言えないストレスを近所の人たちに置き換え
ているのかも知れない。そんな気持ちが強くなってきたのかもしれない
毎週日曜に実家に帰るようになり1年が経った。でも1度も苦になったとは少しも感じない。

まさに仏の境地になる事が自分自身の成長の証として問われているのかも知れない。


古河雀神社の北側の境内に於いて

父は子供の頃、この場所で剣道大会で行われて相手に

勝った時の「胴」を入れた時の格好をしてくれました。

戦争前の唯一の楽しい思い出だったようです。


平成30416日(日)

いつものように実家に行き、1週間分の買い物のサポート。今日は朝から雨、古河に着く頃は上がって
いた。父は最近、若かりし頃の思い出話を話してくれる。なぜだろう。
今までそんな話はあまり話さなかった。と言うより話を聞く時間もなかったかもしれない。
せっかくなので文章に残そうと思った。

 

昭和6年に生まれた父は終戦を迎える少し前、12歳だった。戦中は学徒動員で父は古河市内の各所で防空
壕堀を命令されたが、仲間と
子どもしか通れないような防空壕の通路を掘ったりして先生よりこっぴどく
叱られたとのこと。そんなことをしているものだから罰として
仲間数名と飯島製作所にある建屋の解体を
する仕事を命ぜられた。この建屋解体は本土への空襲における焼夷弾による延焼防止として
1軒おきに解体
をする仕事だった。終戦の年には古河あたりにもアメリカの爆撃機とかがやってきたようだ。

古河はその昔、大きな生糸工場の会社が集まり、そのひとつに飯嶋製作所があった。生糸工場では
若い工女が熱湯に入れた繭から糸を紡いでいく。
工場の解体は屋根に上り、解体をするのだがそんな
経験もなかったが、とにかく
解体することに集中した。途中、解体の休憩をしている時に生糸工場の
工女のお姉さんたちにこっちにくるよう声を掛けられた。
行ってみるといくつかの紙の袋を差し出して
「これ食べな」と差し出される。
紙袋を開くと焼いたサナギが入っていた。
当時は食べるものもろくになく、1日中腹を空かせていた時代。焼サナギは腹を満たすには十分で美味
かった。このサナギは糸をつむいで最後に中から出てくるサナギでそれを蒸気が流れているパイプの上
に並べて乗せておくとサナギがいい具合に焼けるそうだ。見た目はグロテスクだと思うがそんな時代に
は見た目よりも腹に入るもの。当時は満腹に何かを食べたことはなかった。
 

昭和20815日、先生の指示で大きなラジオの前に並ぶよう指示された。朝礼をやる場所には既に沢山
の人達が並んでおり、自分たちは後方の方に並んだ。
ラジオは今とは違い大きな音が出る訳ではない。
玉音放送は小学生高学年の
父にはすぐに内容はわからなかったとのこと。
ただ、先生が泣いていたので内容は容易に想像ができたとのこと。それまでは日本人は戦争に勝つと、
誰もが疑わなかった。なぜなら、
ラジオや新聞からは連日、各地で戦勝の記事や臨時ニュースばかりだった。
ただし、ある日、アメリカが落とした爆弾であっという間にすべてが燃えてしまい、そこには何百年も草木
も生えないピカドンが落とされたことが人の噂話として伝わってきたとのこと。
それも情報統制の中で正しい情報はなかったとのこと。

 

終戦後、色々な仕事をした。渋川の手前に水力発電のダムを造る工事の作業員を集めている。
当時は白い飯が腹いっぱい食える仕事も少なく、食べられることが一番の仕事の選択条件だったかもしれない。
集合場所の間々田の旅館に行った。人数が集まるまではそこで待機だったとのこと。時間があるので事前に教育
として舐められないように誰もが啖呵を切る練習をさせられた。
いわゆる「お控えなさって、手前生国と発します所、関東です・・・・」
啖呵が一人前に必要な半場とはどんな
所か不安だったが、現場に入ると荒くれ男達で一杯の場所。そこでは山の上から丸太を担ぎ下ろす仕事だった。
しかし、この仕事はかなりの体力を必要とした。飯もろくに食べてないこともあり、体力がなかった中での作業
は重労働。あげきのはて途中で谷底に丸太を落とす始末。そこでこの仕事はできないと思い逃げ出そうと考えて
いた。半場には少し離れた所に食料を入れる倉庫がある。倉庫の周囲は塀があったが、丸太を塀に斜めに掛けて
登り、反対側に丸太を落として食料倉庫に忍び込む、そこから米を盗んで食べていた。ダム工事は重労働で半場
から逃げ出すものも多く、現場や近隣の駅には常に荒くれ共が監視、逃げ出して捕まるものなら命がない。
だいたい、一番近い、渋川の駅で捕まるケースが多かったそうだ。
そこで夜中に遠回りをして別な場所の駅まで山中を歩き命からがら逃げ出してきたとのこと。

当時は色々、ひとを騙すような詐欺まがいの行為が多かった。
そのひとつに稼いだ金で当時の一杯飲み屋のような店でご馳走すると「次の店では私がご馳走します」と言われ
ついていくと沢山料理を頼んだあげく、そいつはいつのまにか消える。当然、店は金を払えとなり、警察を呼ばれる。
結局は金を払うことになったが、当時の警察は今とは違い、パトカーで家まで送ってくれた。とにかく人を見たら
泥棒と思え。そんな時代でもあった。

試行錯誤の中で地元の知り合いのネジ工場でネジを作る仕事をした。戦後、古河当たりの1か月の給料は3000円程度
だった。
ただし、東京の三河島のネジ工場では8000円位稼げた。古河から東京までの汽車の定期代は
360円だったとのこと。
上野駅前では屋台と呼ぶにはひどい商売をしている店が多く、コッペパンを真ん中より開き、錆びた一斗缶よりあんこ
をパンに挟んでくれる。決してきれいな印象はないが美味かった。これを職場に着く前に歩きながら食べてしまうとの
こと。
また、こんな仕事もした。旧国鉄の貨車に側溝のコンクリートの板を乗せる仕事、半日で8000円、
しかも
1日働くと16000円にもなる。当時、3000/月を考えると異常な位の仕事。その仕事で稼いだ金で白と黒の
コンビの革靴を買った。当時としてはモダンでハイカラなアイテムだったと感じる。
以前、私の長男、父からすると孫にあたるが一度だけ実家に車を停めさせてもらい東京に行く服装を窓から眺めていた
ようだ。その時の服装が自分の若い時と重なって見ていたのかもしれない。

久しぶりに目を輝かせて話す父。青春時代の数少ない楽しかった思い出なんだろうと感じた。

 

 

  平成30年1月14日(日)

  昨年5月より毎週末に父の買い物の送迎を初めて7か月近く経過した。

  今日は家で履くスエットが古くなり、洗うたびに毛玉ができる。それを丁寧にとるのが大変だということで
 
  ユニクロの広告があったことでスエットを買いにいく。結構、服にはこだわりがあることがこの半年で理解した。

  現在履いているものは綿とポリエステルのうち、綿の割合の方が高いので暖かいとのこと。そこで綿が90%、

  ポリエステルが10%のものを購入する。また、毛玉取りの機械を持って行って少し動かしたらこれで毛玉とれば
 
  起毛が抜けてしまうとのこと。おーい。毎回洗うたびに手でむしってるのは誰だー?。同じじゃないかと思うのだが

  それも年寄りのこだわり、好きにすればいい。ユニクロ、ヨーカ堂で食品の買い物をして家に戻って昼食を食べながら
  
  父親と話す。昔、若い頃は東京に働きに行っていた話や酒話題になり、親父の父親の話をしてくれた。

  昭和27年9月19日の週、材木の買い付けの仕事で岩井市に出向き、そこで倒れたとの連絡があり、父の姉と共に

  歩いて筑波の脇を抜けて行ったとのこと。

  家に連れて帰り、病院に入院させたが1週間後、胃潰瘍で亡くなった。昭和27年9月29日 中里圓造 63歳

  お酒の強い親父だったとのこと。私は昭和32年生まれなので祖父の事は全く知らない。

  祖父の誕生日を逆算すると1889年生まれ 明治22年 今から129年前に生まれた。

 調べてみました。 
明治22年(1889)2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。この憲法のもとでは、天皇が国の元首として統治権を
総攬(そうらん)しましたが、法律の範囲内で、国民は、居住・移転や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、信書
の秘密、私有財産の保護などが認められました。また、帝国議会が設けられ、法律案・予算案の審議権(協賛権)が与
えられました。司法権は行政権から独立し、三権分立が定められました。
掲載資料は、大日本帝国憲法発布に際して発せられた勅語(官報号外に掲載されたもの)です。 


祖父が生まれて5年後に日清戦争、15年後に日露戦争、父は1931年 昭和6年に生まれたので祖父が42歳の時の

子ども、歴史的に戦争が続いた中での父の誕生。

しかし、親父が21歳で父を亡くしたことが分かった。21歳で父親を亡くす。さぞ、辛い時代だったのだろう。

私にとっての父は今年9月で87歳になる予定。

そうやって命のバトンをつないできたんだと思うと感慨深い気持ちになる。

もっと祖父の事を次回は聞いてみようと思う。








  平成29年5月下旬 顔面神経麻痺からリハビリ治療

  親父は今年で86歳を迎える。母は平成10年に66歳で亡くなった。

  実家で父は一人で19年、生活をしてきている。
  
  父親から電話があり、急に顔の左側が動かなくなったと電話が入る。

  早速、病院で診察してもらうと顔面神経麻痺、脳からきているのかは1週間、点滴と

  リハビリ通院が必要だとのこと。可能な限り通院に付き添いながら最終日のMRIの診察。
  
  結果としては脳から来た訳ではないことだけはわかった。ただ、顔に後遺症が残る可能性
  
  があるので家で顔のリハビリを毎日やるように医師から指導があった。
  
  顔の左側が動かしにくい中で食事は辛いでしょう。鏡をみながら一生懸命頑張っている姿と
  
  実家に行くたびに顔がだいぶ良くなってきたんだと自慢する表情に胸が熱くなる。

  顔面神経麻痺が出たあの日、急に下着やパジャマを買いに行ったのは入院を考えての準備

  だったんですね。今まで弱さを見せない親父が「俺は弱い人間なんだ・・」と泣かないでください。

  飲み物を飲むと左側からこぼれてしまうのを手で押さえながら飲んでいる。子供からして辛い

  景色だった。

  ずいぶん歳をとりましたね。私が子供の頃、怖かった印象はみじんもない。

  どうか、強気の父親でいてください。息子の親不孝を痛感してしまうじゃないですか。

  これからは少しでも力になって行こうと感じました。困っている事で私ができることは何でもしよう。

  足の具合もあまり長く歩けないので毎週、買い物につきあい、冷蔵庫に食品を入れる。

  そこまでが私の役割としてやれること。また、古い期限切れの食品を取り出して捨てられるように
  
  すること。3か月が経過しようとしていますが、顔面麻痺も徐々に良くなってきました。でも完全に

  治るには難しいのかもしれませんが、一生懸命リハビリをしています。

  買い物に同行して一緒にいて色々、分かりました。

  親父の好きな食べ物、下着の種類、飲み薬や殺虫剤、治療薬、公共料金などの支払方法など

  そして、近所の様子なども知ることができました。

  中でも興味を持ったのが親父が子供の頃からの生い立ちだ。いままで聞いた事がない話を沢山して

  くれる。私がこの歳になったからわかる気持ちの心境もある。いまだから素直に聞けるようになるとは
 
  60歳で親の思いがわかるようになるとは情けない限りだ。

  時折、親父は私の体や妹夫婦の心配をする。

  お願いだから自分の身体の事だけを考えてください。

  子供達も当にジジババになり、曲がりなりにも生きてます。


  親父の唯一変わらない事は、タバコを止めないことかな。

  それでいいんじゃないかな。


 
 煙草を吸う姿だけは強気の親父そのもの

   86歳の親父を見ながら・・・感慨深いものがある。

  家の近くにあるイトーヨーカ堂、日曜の午前中に車中から

  腰の曲がったおじいさんがようやく歩きながら小さなカートを

  引いてヨーカ堂に向かっている。それも晴天だけでなく、雨でもカッパを着てカートを引く。

  突然、親父がそれをみながら一言。

  「俺はあの爺さんより幸せだよな。」

  私は胸からこみ上げる熱いもので何も言えなかった。

   お願いだから60歳の息子を泣かさないでくれー。












  



  
俺が子供の頃、無口な親父が酒を飲むと話してくれた。

  テレビには小人が入っている。その証拠にテレビの後ろの穴から覗くと

  筒状の家みたいな細長い筒のような物が何個も見える。

  そこにはひとつひとつの灯りが灯る。

  真空管と呼ばれる電気部品だと電気屋は言っていたんだな。
 
  実はそれが大嘘、ひとつひとつが小人の家でみーんな生活をしているんだ。

  テレビの中は小人の町なんだと。本当は元々は人間だったって話だ。

   テレビに出演して給料をもらっているんだとか、小人からしたら舞台にでるようなもんだな。

  親父に聞いた。今は夜中も番組やってるんだがいつ飯食うんだ?

  親父が言った。

  小人達のオヤジもとーちゃんと同じで交代勤務はじめたんだなー

  生活厳しいんだろうなぁ。

  小人だって働く、人様が働かねえでいると小人の国に連れて行かれるって話だ。

  俺は思った。「怖い話だなぁ」


 俺が子供の頃、無口な親父が酒に酔うと話してくれた。

 親父が俺に言った。「こないだ、家に入れた電話ってのはどのような仕組みかわかるか?」

 俺は言った「学校で習ったんだ。話した声を電気に変えて電線使って遠くまで伝え、それを

 音に戻すと声が聞こえるって先生が言ってたぞ」

 親父が言った。「それは先生が未熟だな。本当の事を聞かされてねえんだ。」

 「えー、ほんとじゃねえのか」

 こないだとーちゃんは電話機を分解したんだ。 ここから先は誰にも内緒だ。父ちゃんと小人

 で約束したからな。

 俺は聞いた。「小人ってテレビに入っている小人かい?」

 親父は周囲を見回して小声で俺の耳元で言った。

 「テレビの小人とは違う。モノマネが得意な小人は電話機担当になるらしい。

 「電話を分解したら中に小人がいてモノマネができるから電話担当だと とーちゃんにいうんだ。
 
 番号を回すと小人が持っているリストで誰に掛けているかわかるらしい。
 
 小人はその番号の名前を見て相手の声を真似るらしい。そして必要な事はメモしておいて掛けた相手の家まで
 
 電線を伝っていくわけだ。そして電話の中に入りベルを鳴らす。
 
 そこでも物まねして相手に伝えるのが仕組み みていな。

 ただし、中を開けると小人がいるのがわかっちまう。大概の大人じゃ、サーカス小屋に売り飛ばして見世物に
 
 してしまう。それをさせねえように音を電気に変えて電線で伝える。みてえな事を言うんだな。」

 俺は聞いた。「じゃ、小人が相手の家にいる時に電話が掛けたりできるじゃねえか?」

 親父は言った。「外出する時には隣近所の小人に言って交代で俺の家の電話機の中に

 入って対応するんだと言ってた」

 更に俺は聞いた。「じゃ、電話しても誰も出ねえ時がある。それはなんでだ。」

 親父は言った・「小人だってよ。1日の働く時間や食事とかタバコ吸ったり、便所にも行

 く時がある。
 
 小人がそういう休憩の時に掛けるとつながらねえんだよ。

 だから「話中」って言うんだけど本当は休憩してるんだ。

 これは内緒だぞ。わかると小人が売られちまうからな。

 俺は返事をした。「うん、誰にも話さないよ。」




 俺が子供の頃、無口な親父が酒を飲むと話してくれた。

 親父が言った。「浦島太郎の話は聞いたことがあるか?」

 俺は言った。「浦島がいじめられていたカメを助け、竜宮城に

 連れてってもらった話だろ。」

 親父は言った・「表向きはそんな話だ」

「んー、本当の事、言おうか迷うな・・・。」

 俺は言った「もったいぶらねえで聞かせてくれよー」

 親父は小声で話しだした。

「浦島太郎は騙されてしまった悲しい物語なんだよ。

 海岸で子供たちがカメをいじめていた。

 あれは子供とカメがぐるで浦島が魚を売ってきた帰りを待ち構えた金を巻き上げる。

計画的に仕組まれたんだな。

 いじめてるカメの姿をみると誰でも可哀想に思える。ただ、いじめを

 やめろと言ってもダメだ。そこは懐にたんまりある金だ。子供たちだって

タダでは引けない。そこでカメを売ることを浦島に持ちかけて小遣いを稼ぐ。

 だいたい、亀の甲羅は硬いんだぞ、多少の棒で叩いても痛くもねえ。ましてや

 子供の力だ。全力で叩いても大した力はでねえ。冷静に見ればわかるんだけど


 
浦島は若いし疑うことを知らない奴だからな。

 続きの話だけど、金がありそうな奴はさらにお礼がしたいので「竜宮城に行きませんか」と、

カメが連れて行くんだな。

親父は更に強調した。「だいたいよ、エラ呼吸のできねえ、人間が海に潜れると思うか?」

 それくらいは学校で習っただろう。昔話には裏がある。

 現実はこうだよ。カメは ま、悪質な客引きだ。当然待っているのはキャバレーのような、
 
 今だとキャバクラか?。

 魚釣りしかしらねえ、純情な若者が綺麗な女なんぞ、見たことがねえー、香水の匂いなんかも

 嗅いだことがねえ男が

 女ばかりの園に行って無知な浦島を夢の世界のように持ち上げてくれる。そんな中で酒を飲めば大概の男

 なんて騙されちまう。とうちゃんだって、騙されちまうな。何度かあったしな。

浦島の懐の金を搾り取るだけじゃなくて財産も注ぎ込むまで悪質な店では乙姫さんが催眠術を掛けるんだな。

何しろ乙姫さんはミス〇〇みたいな美貌だし、話は上手い、スタッフは踊りや歌が上手だ。ま、ダンスや

踊りをやってきたプロの女たちだ。

浦島から見れば「タイやヒラメのまいおどり」それくらい綺麗な夢の世界を感じたんだろうな。

何しろ夢の世界、キャバレーなんてそういう場所だしな。

俺は聞いた「どうやって催眠術をかけるんだ?」

親父は言った。「そこはあれだ、来月は私の誕生日なのーとか、母が入院して手術費がかかるんだけど

 足らなくて・・、
 
 それとか、兄弟が交通事故起こして悪い相手で保険では足らない示談金が必要なの・・・。

「たーさんお願いー。」甘えた声で言うんだよ。
 
 親父に聞いた。「そのたーさんて誰だい」

 
 
親父は言った。「そういう場所では名前をそのまま呼ばねえんだ。太郎だから「ターさん」とか

 呼ばれるんだよ。」

 そう呼ばれるとなんか、とても身近な存在になった気がするんだよ。家族のような、ま、これが

 営業トーク」っていうもんなんだ。
 
 俺は言った。「なるほど、俺だと「まーさん」かー、親友みたく感じる。」

 ま、好きな女が困った話をすれば大概の男は何とかしてやろうと思ってしまう。これこそが催眠術

 に掛かる魅惑術
 
 
って言うのかもしれねえな。
 
 「なんでそこまで金を使うんだ。」と俺は聞いた。
 
 親父は言った。「まだ、お前にはわからねえと思うが男ってのはすけべ心があるんだよ。期待を

 するんだよ期待を。」

 
俺は聞いた「何の?」

 親父は言った「そこは まー、大人になればわかる」
 
 気が付けば魚を売った金は全部、竜宮城に注ぎ込む。家の財産も売り飛ばして金に変え、乙姫にプレゼントをする。

 

 持てる金はすべて使わせて気が付けばおじいさん、これ以上働けねえとわかると催眠術を解くんだな。
 
 玉手箱と名付けた煙箱を渡すんだ。

そして乙姫は浦島に最後の術を掛ける。「あなたはここを出るとこの玉手箱を開きたくなる。

そして中から出る煙をみると

今までの全ての記憶が消えます。1.2.3」

そう言って浦島を帰すんだよ。

その後はお話の通りだ。

世の中で良い話はこんなもんだよ。それだけ世の中はまじめに生きてる奴を騙す怖い奴らが多いから

気をつけろって話だ。

特に大事なことは騙されたことが本人には わからねえことだな。

俺は思った。「そのすけべ心に気をつける大人になろう」と。

そんな教訓の話も虚しく、俺は大人になった。振り返れば自分も浦島三郎くらいはつぎ込んだかも知れねえ。

でもこの話を知らなければまさに俺が「浦島太郎」だったかなぁ。


(こんな話は更に続く予定です。)

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